東京高等裁判所 平成9年(う)1947号 判決 1998年3月11日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人小林哲也作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官加藤友朗作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。
第一 控訴趣意第一の主張(訴訟手続の法令違反の主張)について
論旨は、要するに、原裁判所は、司法警察員作成の平成九年二月二四日付け実況見分調書を刑訴法三二一条三項書面として採用したが、同調書は同条項の書面には該当しない、すなわち、<1>同調書の基礎となった実況見分は、平成九年二月二二日という本件から四か月以上も経過した時期になされているから、事件当時の状況が正確に再現されていることの保障がない、<2>右実況見分は、同月一〇日に正式裁判請求がされたのちに実施されたが、起訴後に強制捜査としての検証が許されるのは、あらかじめ証拠を保全しておかなければその証拠を使用することが困難な事情がある場合に限られるべきであり、これと同様の性質を有する実況見分についても、右の要件を充たす場合に限って初めて、その結果を記載した調書に前記条項による証拠能力が付与されると解するのが相当であるところ、本件についてはそのような特別な事情はなかった、<3>同調書の大部分は、被害者とされている甲野太郎による犯行の再現写真と、これについての同人の説明供述であるから、同調書は実質的には司法警察員による同人の供述録取書にすぎない、<4>同調書は写真撮影方向が十数か所にわたって誤って記載されているなど多くの誤りを含むもので、現場の状況が正確に再現されておらず、真正に作成されたものとはいえない、したがって、右実況見分調書は前記条項によっては採用できないものであるから、これを証拠として採用した原審の訴訟手続には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違反がある、というのである。
そこで、検討するのに、まず、原審記録によると、原審裁判所は、前記実況見分調書について、先にその作成者である川村文夫の証人尋問を経た上で、これを刑訴法三二一条三項書面として採用したことが明らかである。そして、所論は、原審裁判所の右の措置が違法であるとして、縷々主張しているのである。
しかし、まず、<1>についてみるのに、関係証拠によると、本件実況見分は事件後四か月位経過した時期に実施されたものであり、その見分場所の状況には事件発生当時とほとんど変化はなく、しかも、右見分にあたっては、被害者とされている甲野太郎が立会し、被告人運転車両のドアを蹴った地点、同人が被告人から暴行を受けた地点等関係地点を明確に特定した上で、現場の状況、距離関係等が見分されたことが明らかであるから、右見分結果は本件との関連性を否定すべき場合に当たらないことは明らかである。
次に、<2>についてみるのに、関係証拠によると、本件実況見分は平成九年二月一〇日に正式裁判請求がされた後で実施されたことは所論指摘のとおりである。しかし、捜査機関は、起訴後、さらには正式裁判請求ののちであっても、あらかじめ証拠を保全しておかなければその証拠を使用することが困難な事情があると否とにかかわらず、その必要性に応じて任意処分としての実況見分を行うことができ、その結果を記載した調書は、作成者が真正に作成した旨証言した場合には、刑訴法三二一条三項書面として証拠能力を有すると解するのが相当である。これと異なる所論は畢竟独自の見解にすぎない。
<3>についてみるのに、本件実況見分調書は、被害者とされている甲野太郎による犯行の再現写真と、これについての同人の指示説明が比較的多くの部分を占めていることは指摘のとおりである。しかし、実況見分調書中の被害者の犯行再現写真やこれについての指示説明部分は、見分の対象に直接関連し、見分事項や見分内容を明確にするために必要がある限度で、実況見分調書と一体のものとして刑訴法三二一条三項により証拠能力が認められると解されるところ、本件犯行再現写真やこれについての甲野の指示説明は、同人が被告人運転車両を蹴とばした地点、被告人及び甲野がそれぞれ相手方に暴行を加えた地点などを指示・特定し、これらと現場との関連を明らかにするという実況見分の目的に則し、かつ、右の要請にかなうものと認められるから、本件調書は全体として実況見分調書としての実質を失わないものというべきである。なお、同調書の立証趣旨は「本件発生場所の状況及び本件再現状況等」とされていて、一見すると犯行の再現状況を立証趣旨に含めているかのように見えなくはないが、右の調書の実態に徴すると、それは結局甲野の犯行再現状況との関連から見た本件現場の状況というにすぎないものと理解されるから、右事情はいまだ前認定を左右するものではない。
最後に、<4>については、証人川村文夫の原審第二回公判における証言等によると、本件実況見分調書は写真撮影方向の記載が十数か所にわたって誤っているほか、証拠採用の段階では既に訂正済みであったが、距離関係等の記載にも数か所誤りがあったことが認められる。しかし、右写真撮影方向や距離関係等の誤りは、方角の誤認を中心とする単なる誤記であることが本件調書その他の記載内容自体から明白なものばかりであって、右調書の真正成立の認定に影響を及ぼすようなものとは考えられない。
したがって、原審裁判所が、前記実況見分調書を刑訴法三二一条三項書面として採用したことに違法な点はなく、論旨は理由がない。
第二 控訴趣旨第二の主張(事実誤認の主張)について
論旨は、要するに、原判決は、被告人の本件行為を正当防衛にも正当行為にもあたらないとして有罪としたが、被告人は、被害者とされている甲野が運転車両を蹴とばして逃走したので、これを逮捕すべく追跡したところ、甲野が原判示の笹生正明方前の袋小路に入りこんで逃げ場を失い、原動機付自転車に乗ったまま被告人に向かって突進してきて、被告人を殴打し、ヘルメットを被ったまま頭突きをするなどの攻撃を加えてきたので、取り押さえるため、やむなく本件行為に及んだもので、右行為は正当防衛ないし逮捕にともなって許される実力行使として正当行為に該当し、罪とならないから、原判決の右認定には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。
そこで、検討するのに、被告人の本件行為は、現行犯人逮捕のため許される限度内のもので、刑法三五条にいう正当行為に該当するというべきである。すなわち、
一 まず、原審記録及び当審における事実取調べの結果によると、次の事実が明らかである。
1 平成八年一〇月一六日午後九時すぎころ、神奈川県平塚市岡崎二九五五番地先の信号機により交通整理の行われている丁字路交差点に、甲野太郎運転の原動機付自転車、これに続く数台の原動機付自転車、被告人運転の普通乗用自動車が赤信号に従って順次停車したが、その際、被告人は降車して、甲野車の後方にいた原付車の運転者らに対して、被告人車の前方を集団で蛇行運転したのは危険であると大声で文句を言い、再び乗車して、進路前方の信号が青に変わったのち、右折進行するため道路中央付近に進出して対向車の通過待ちをしていたところ、並進位置にいた甲野が、原付車に乗車したまま、右足で被告人車の左側助手席ドア付近を蹴りつけた上、Uターンして反対方向に逃走した。
2 被告人は、甲野の右行為により自車が損傷させられたと考え、Uターンして甲野運転車両を追い掛け、約一・五キロメートル追跡して原判示の笹生正明方の庭先に追い詰め、一般道路から同人方に通じており、その両側を石垣にはさまれた幅員約三・六メートルの通路の奥に自車を斜めに停車させて、甲野の逃げ道を塞いだ。
3 すると、甲野は、右庭先で反転し、原付車に乗ったまま、被告人車の左側方、石垣との間に生じた約〇・七メートルの間隙を走り抜けて逃走しようとした。そこで、被告人は同人の身体をつかまえ、被告人車の左後部付近でつかみ合いになったが、その過程において、被告人が甲野の顔面・頭部を手拳及び付近にあった太さ約四センチ、長さ約五三センチの木の棒で殴打するなどの暴行を加え、同人に加療約二週間を要する頭部打撲等の傷害を負わせるという本件が発生した。そして、結局、被告人が甲野を制圧し、同人はその場に倒れた。
4 その後、被告人は、騒ぎに気づいて戸外に出てきた笹生正明に対して、「暴走族をのしちゃったから一一〇番通報してくれ。」と頼み、これを受けた笹生が警察に通報し、やがて警察官が現場に臨場した。甲野は頭頂部付近や鼻から出血し、右頬や唇を腫らした状態で倒れており、また、被告人も顔面を腫らして、頭部から出血していた。
5 被告人運転車両は甲野に足蹴にされたことにより左側ドア部分が凹損し、その修理には一四万八九三八円(消費税込み)を要する状態であった。また、被告人も甲野との右抗争により、全治約二週間を要する顔面打撲、左膝打撲、右下腿打撲、左V趾捻挫及び全治約五日間を要する頭部打撲の傷害を負った。
二 ところで、被告人と甲野の抗争の具体的経過については、右両名の供述が大きく食違っている。
すなわち、まず、被告人は、「甲野を笹生方庭先に追い詰め、降車して自車後部に回り、自車と石垣との間を原付車に乗ったまま、走って逃げようとした甲野を捕まえようとしたところ、同人はアクセルを吹かして被告人に向かって突っ込んできた、あわてて横に避けて、側方から同人の両肩を両手でつかむと、同人はいきなり左右の手拳で被告人の顔面を三回殴打し、ヘルメットを脱ぎながらこれを前方に突きだして顔面にぶつけてきた、その後もみ合いになり三回位一緒にその場に倒れた、その間甲野は何度も腹や胸を殴ってきた、そして、被告人は通路右側の石垣のところに押しつけられてさらに何度も殴られた、そのため危険を感じて、右手を後ろに回して手探りでつかんだ固形の物で甲野の頭部を殴ったが、それは土の塊だったようですぐに砕けてしまった、その後も甲野の攻撃が続いたのでさらに右手を後ろに回し、その場にあった木の棒で甲野の頭部を三回位殴りつけた、その後手拳で顔面を殴ったこともあると思う、結局甲野をその場に殴り倒し、直後に頭部や腹部を足蹴りした、その間被告人は何度も甲野に対して「何もしないから抵抗するな。」などと言って制止したが、同人がそれを聞き入れずに攻撃を続けてきたので、やむなくこのようなことになった。」と供述している。これに対して、甲野は、原審公判廷で証人として、「被告人車と石垣の間をすり抜けると、被告人が左側から走ってきたので、アクセルを吹かして逃げようとした、ぎりぎり当たらないで通れると思ったが、被告人に横から腹の辺りを捕まれた、その後被告人が甲野の肩の辺りをつかみ、甲野が被告人の腰の辺りをつかんでもみ合いになった、そのころ被っていたヘルメットが脱げた、その後被告人から顔面に二回頭突きをされ、さらに顔面を三、四回殴られたので、押し倒してでも逃げようと思い、頭を被告人の胸辺りに押しつけ、手を腰の辺りにあてがって、被告人を石垣のところに押し込んだ、すると、被告人から頭部付近を、何か固い物で三回位、次いで木の棒で二回位殴られた、そこで手拳で被告人の顔面を四回位殴り返したところ、さらに激しく木の棒で三、四回頭部を殴られ、気が遠くなってその場に倒れると、頭部や背部を木の棒で殴られ、足蹴にされた。」などと供述をしている。つまり、それぞれが、自己の行為は、相手方が先に殴りかかってきたから反撃したという防衛的なものであったと供述しているのである。
三 そこで、右各供述の信用性を検討するのに、前認定の事実によると、被告人は、一見甲野の仲間と見られる原付車の集団に前方を蛇行運転されて通行を妨害されたばかりか、これに文句を言ったところ、その直後に甲野に自車のドア付近を蹴られて凹損させられたというのであるから、当時同人に対して相当立腹していたと推察されるし、また、関係証拠によると、被告人にはこれまで傷害等の粗暴犯前科が多数あるから、こうした本件に至るいきさつと被告人の性格等からみて、被告人の方から先に攻撃を加えてきたという甲野の前記供述は、ごく自然なもののようにも受け取れる。しかし、双方の供述を対比してみると、被告人の供述の方が客観的事実に符合する部分が多いとみられる。すなわち、被告人は、まず、本件直後に警察官から頭部に出血しているのを目撃されており、これについては後日全治約五日間を要する頭部打撲と診断されているのであるが、当審で取り調べた司法警察員作成の平成一〇年二月一九日付け写真撮影報告書によると、右傷は具体的には額の生え際から頭頂部に向かう数センチ程度の縦の傷であると認められる。そうすると、被告人は甲野との抗争の過程で右部位に右創傷を生じる程度の打撃を受けたことになるが、甲野は、被告人に対してはその顔面を手拳で四回位殴っただけだと供述しているから、これによっては被告人が右傷を負った理由を説明できない。両名の各供述を仔細に点検してみると、右傷は甲野がヘルメットを被告人の顔面にぶつけようとしたときにヘルメットのかどなどが当該部位に当たってできたと考えるのが最も合理的のように思われる。また、関係証拠によると、被告人は身長一七七センチ、体重八五キロであったのに対し、甲野は身長一六八・六センチ、体重五五キロで、両者の間にはかなりの体格差があったとされているのに、被告人が甲野から一時一方的に石垣のところに追い込まれたことについては、両者の供述が一致している。このことは、甲野がかなり激しく被告人に抵抗していたことを示していると受け取られる。さらに、被告人は、甲野を前記交差点から笹生方前まで追跡する過程においても、また、本件通路で追い詰められた同人をまず捕捉しようとした際にも、単にその後方から追跡し、あるいは横からその身体をつかもうとしただけで、格別手荒な行為に出たとは認められないのに対して、甲野は、その供述によっても、被告人車に逃げ道を塞がれた際、原付車に乗ったまま逃走しようとして、被告人が横から向かってきているのに、アクセルを吹かして被告人と石垣のわずかな間隙をすり抜けようとしたというのであるから、当初から被告人の身体の安全に対する配慮に欠けていたのではないかと疑われる。なお、被告人は、この点、甲野は正面からアクセルを吹かして突進してきたと供述しているが、同人がこの時点でそこまで危険な行為をしたことを認めさせる証拠はなく、被告人が左膝等に前記のような傷害を負っていることを考慮しても、右供述は言葉どおりには受け取れない。このような事情を総合すると、被告人の供述中にもやや誇張部分があると感じられるけれども、全体としてみれば、被告人の供述の方が、甲野の供述よりもより信用できる状況にあるというべきである。そして、これによると、被告人は、甲野が原付車に乗ったまま被告人と石垣の間隙を縫って逃走しようとしたのを横から捕まえてもみ合いになったところ、同人から顔面を殴打され、ヘルメットを頭部付近にぶつけられ、さらに石垣に押し込まれて攻撃されるなどしたため、たまたま近くにあった前記木の棒を手にするなどして反撃し本件行為に及んだものと認められる。
四 以上の事実を前提に検討するのに、まず、甲野は、後続の原付車と共同して走っていたわけではないとしながら、自分が被告人から文句を言われたわけでもないのに、被告人運転車両のドア付近をことさら足蹴にして凹損させ、いわば器物損壊行為に及んで挑発した上で逃走したことが明らかである。一方、被告人は、甲野を現行犯逮捕し、損害の賠償をさせるべくこれを追跡の上、本件行為に及んだものであり、そのことは、被告人が本件直後に、現場に現れた笹生に対して、直ちに一一〇番通報することを依頼していることなどに照らしても明らかである。ところで、現行犯逮捕をしようとする場合において、現行犯人から抵抗を受けたときは、逮捕しようとする者は、警察官であると私人であるとを問わず、その際の状況からみて社会通念上逮捕のために必要かつ相当であると認められる限度内の実力を行使することが許され、たとえその実力の行使が外形上は刑罰法令に触れていても、刑法三五条により罰せられないものと解するのが相当である。これを、本件についてみると、甲野は、笹生方庭先に追い詰められるや、原付車を加速して被告人と石垣の間を突破しようとするなど、かなり危険な方法で逃走しようとした上、横から同人をつかまえにきた被告人に対して、顔面を殴打し、ヘルメットをぶつけ、石垣に押し付けて攻撃し、これに対して、被告人は、右抵抗を排除しようとして本件行為に及んだものであることが明らかである。そして、右のような甲野の抵抗の態様や被告人がその過程において自らも前記のような傷害を負わされていることなどに照らすと、被告人が、手探りでつかんだ前記木の棒で甲野を殴打したことや、同人に前記のような傷害を負わせたこともやむを得なかったというべきであり、右の行為は、社会通念上逮捕をするために必要かつ相当な限度内にとどまるものと認められる。なお、被告人は、甲野を殴り倒したのちも、何回かその頭部、腹部等を足蹴にする等の暴行を加えたが、右暴行は甲野が倒れた直後、まだ同人に反撃意思を喪失しているか否か分からない段階で、その意思を制圧するために加えられたものと認められるから、いまだ右の許容範囲を超えるものとまではいえない。原判決は、被告人が憤激して甲野の追跡を開始したことをもって、正当行為を否定する根拠の一つとしているが、被害者が犯人逮捕の意思と並んで、報復感情や懲罰感情を抱くことはむしろ自然なことであり、そのような感情を一部に抱いていても、そのことから直ちに逮捕行為全体が違法性を帯びるということはできない。
そうすると、被告人の甲野に対する本件行為は、現行犯逮捕にともなう適法な実力行使と認め得るから、刑法三五条により罪とならないものというべきである。したがって、これと異なり、現行犯逮捕にともなう適法な実力行使にあたらないとした原判決は事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものというべきであり、その余の控訴趣意について判断をするまでもなく、破棄を免れない。この点の論旨は理由がある。
よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄した上、同法四〇〇条ただし書により、当裁判所において、さらに次のとおり判決する。
本件公訴事実は、「被告人は、平成八年一〇月一六日午後九時二五分ころ、神奈川県平塚市岡崎二八七四番地笹生正明方先路上において、甲野太郎(当時一八歳)に対し、その顔面・頭部を手拳及び木の棒で殴打する等の暴行を加え、よって、同人に加療約二週間を要する頭部打撲等の傷害を負わせたものである。」というのであるが、前記のとおり、本件被告事件は罪とならないものであるから、刑訴法三三六条により無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 秋山規雄 裁判官 下山保男 裁判官 福崎伸一郎)